■ 2021年9月9日(木)訪問者のカウントが100万を超えました!
御陰様で訪問者数カウントが100万を超えました!
今年の4月19日に、当ホームページの訪問者数カウントが100万を超えていました! スタートしたのが2002年の4月だったから、早いもので19年が経ってしまいました。当ホームページは良くあるような掲示板を設けていないので訪問者とのやりとりなどのカウントがありません、それにしては多いかもしれないと自負しています。本当に有り難く、嬉しいことでです。見て下さった方々には感謝しています。ありがとうございました。これからも、どうぞよろしくお願いいたします。
←左の写真は最初の頃の表紙。
スタートしたころは非常に幼稚なものでしたが、しかし何事にも興味が旺盛な私は日夜精進して研究し?(好きだからやってただけ)、本も沢山読んだし,ネットで見て気に入ったHPがあると、テキストをダウンロードして、そのテキストのタグを解析して自分のホームページに反映してきたわけです。全くの自作だということです。
いま、あの私がフルートを始めたときの写真が見つかったのがきっけとなったことで、やる気が起きてきて、以前のように書けるようになってきたのかなかな、という心境です。
私が生きている間は更新できると思っております(そうなんだ)。重病にやられましたが、何とか打ち勝って継続ができれば、と願っております。老人(嫌な言い方・作家の住居すゑさんは、お目にかかったときに、一番嫌いな言葉は余生だと言っておられました)が故に文字の誤変換などがないよう、願っております。(文章はもともと苦手です)
■ 2021年9月02日(木)大変長い間書けませんでした
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初めてのフルート1953.8 (15才)
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この写真、つくづく眺めていたら涙がでてきた(最近は涙もろくて)。15才の中学の三年生の時に初めて買ってもらったフルートを持っての記念写真だ。フルート奏者小出信也スタートである。このときの嬉しさは例えようもなかった。夏休みに父が仕事の関係で赴任していた前橋迄行って、ちいさな楽器店で父に買ってもらったフルートである。無名の真鍮製でいかにも中古らしく古びていて、塗料も剥がれたくたびれた木の箱に入っていたが、毎晩寝るときには抱っこして、頬ずりをしながら寝ていた。そのころの私は思春期の真っ直中だったが、ほとんど毎日10時間くらいは吹いていたから恋愛をする時間なんてなかった。私は毎朝四時に起きで新聞配達をやっていた。石神井公園のボート池、三宝寺池の周りを回るコースだったが(第11区と言っていた)、朝夕刊を配って一ヶ月でもらえるのは1400円だった。そのお金は竹製の紫水とかいう笛を買うのに使ってしまった。大きな新聞の重い束を襷で脇ににかかえこんで1時間半も走りっぱなしで配っていたのが、私のいまの基礎体力になっているのかもしれない。
ところでこの写真、私にとっては一番大切であるはずなのに、撮ってから3-4年後に音楽コンクールを受けることになって、それで提出しなければならないことになった。他に写真がなかったから仕方なくノートから剥がして送ったという経緯があったのであある。(姿勢がよくないのは写真屋にフルートが入りきらないからすこし下に向けて、と言われたから)もちろん後で返却してもらったが、それが私の不注意から以後何十年もの間行方不明になってしまったのであった。最近でもよく思い出していたが、もうほとんど諦めていた。それがなんと最近息子Op2-2がこの写真をメールで送ってきてくれたのである。実は母方の親戚で宮崎在住のカメラ好き従姉妹がこの写真をコピーして写真帳に貼ってくれていたのであるが、それを数年前に宮崎に遊びに行った息子が見つけてコピーしてもっていてくれた。息子は当然私は持っているものと思っていたから、特に何も言わなかったのだが、突然先日Mailで送ってきてくれて、知ることとなったのである。私は興奮した。ああ、この写真だ!再会できたじゃないか!もう嬉しくてたまらなかった。
まだフルートを始めていなかった中三のころの毎週木曜日の午後にラジオの文化放送でフルートの林リリ子とピアノの林光が綺麗なフルート聴かせてくれる番組があった。私は憧れて、弟子になりたくて何日もかけて長い長い手紙を書いたのである。もちろん弟子入りは成就!以後いままでフルートと共に死に物狂いで生きてきたのだ。あとになって林先生は、「小出はね、私に長いラブレターをくれたのよ」、とよく嬉しそうに言ってたのを思い出す)。
こうして書くのは何日ぶりだろう、約一年ぶりだ。書こう、書こうと言う思いはあったのだけれど、どうしても書けなかった。体も精神状態もよくなくて全身がだるくて横になってばかりであった。脳内出血の発作を起こしたのが2017年の秋だったが、今こうして生きているのが不思議なくらいの危険な発作だったのだ。(出血したのは脳幹という最も危険なところ)
一回目の入院は、もう歩けるようにはなれないのだという覚悟を決めていた。ところが私は病院の人達が驚く程の回復ぶりをみせたのである。入院一ヶ月後には早くも杖を使って歩けるまでに回復した。お見舞いに来て下さった友人達も皆おどろいていた。ところが2ヶ月間のリハビリを終えて明るい気分で家に帰ってきた私は、何日か後に迂闊にも転んで後頭部を強打してしまったのである。その時は頭が割れたんじゃないかと思った。勿論すぐにCT検査を受けたが異常はないと言われた。しかし私は現在後遺症が逆戻りして次第に悪くなってきている原因は、医者は関係がないと言うけれど、頭部の強打が原因ではないか、と言う気がしている。
しかしいま思えば病後の2019年暮れに岡崎の宇野病院で演奏したチェロのユルンヤーコブ・ティムとピアノの浜野範子さんとのコンサートは、私の60数年以上にわたる長い演奏活動のなかでも、特筆に値するほどのものだったと確信している。音が非常に気持ち良く出たし、こわばってグーもできない状態の右手の指も良く動いてくれた。これはどう考えたってあり得ないことだ。奇蹟としか言い様がない。きっと神さまが与えて下さった、僕へのご褒美だったのかもしれないと思っている。
いま一番困っているのは体のバランスがとれないことで、これは杖を使えば良い、なんて程度のものではない。それ程めまいがひどい。家の中では壁に手をついて、危なっかしくやっと歩いている状態だから。聴覚も両耳共やられたから補聴器のお世話になっている。口の左半分がこわばって発音がうまくできない。右腕と右膝の強烈なしびれを伴う激痛、とまあ書き出すといくらでもあるが、最近はもう良くはならないだろうと言う諦めの境地が強くなってしまった。
最近ショックだったことがある。大親友の作曲家でピアニストの尾高惇忠さんが2月に亡くなられていたことを知った。我々はときどき美味しい店を探して夕食をともにして楽しむのを習慣にしていたのだが。私に黙って逝っちゃうなんて。さびしすぎるよ.。1968年にパリで初対面以来大の仲良しだった。彼との思い出は山ほどある。日を改めて詳しく書きたいと思う。いまNHKの大河ドラマ「天を衝け」にでいる同姓同名の尾高惇忠(おだかじゅんちゅう)は、彼の祖先である。
お亡くなりになったと言えばもと日本航空の機長だった松林利正さんが知らないうちに逝ってしまったのがショックだった。ご長男からの手紙て知ったわけだが、そろそろお会いして私の大好きな飛行機の最新の話題などを聞きに伺いたいたいな、と思っていた矢先だった。N響ヨーロッパ旅行の時には、我々が乗る飛行機の操縦をしてくださった。私のご近所にお住まいの機長仲間の斉藤満夫さん(お嬢さんがフルートをやっておられた)が行きのヒースロー空港までの操縦を受け持ってくださり、帰りは松林利正さんが操縦してくださった。(行きはBoeing747-400 帰りはBoeing747-Classic)。行きの成田空港から離陸するときから、帰りのイギリスのヒースロー空港からの離陸時も、おかげさまで操縦室ですごすことができた。(日航が操縦室立ち入り許可証をくださった)帰りは特に数時間にわたって見学できたから本当に興奮した。操縦に関することを沢山教えてくださった。飛行機が大好きな私は演奏旅行の疲れもあったろうに、そんなものはどこかに吹っ飛んでしまって一睡もしなかったのである。
こうして書いている時に、突然もとN響のコンサートマスター坂本玉明さんの訃報がはいってきた。これはショックだ。松山にいる玉ちゃん(こう呼んでいた)とはお互いに共通の病気もちで同病相哀れむといった仲だったから寂しくなってしまった。彼は18種類ものクスリを服用していると自慢?げに話していたが、私はそれが病気の原因じゃないの、といって笑い合っていたのは、つい先日だったような気がする。あっという間に亡くなられたから気持ちの整理もできない。享年89才だった。心からご冥福をお祈りする。たまちゃん、もうすぐ会えるからね!
■ 2020年12月16日(木)Auf Wiedersehen mein lieber BMW
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BMW 323i
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長いことDiaryを更新できなかった。1月に書いたきり一年近くも更新していないのだから。その間何度かiMacの前に向った。だが一向に筆が進まない。ネタが無かったわけでは無いのだけれど。無かったどころか書きたいことは山ほどもあった。書きかけのもは沢山ある。、でもそれらを書き終えるところまでなかなか至らないのだ。体調が原因だが何とも具合がよろしくない。
そんなこんな最近、40年間惚れ込んで5台も乗り継いできたBMW6気筒と(ナンバーはいずれもバッハの生まれ年の1685にしていた)いよいよお別れする時が来て、これは書かなくちゃなるまいと思ったわけである。とにかく今回の法廷定期検査の見積もりは、修理費がとてつもなく高かったので(軽が一台買えそうだった)、この際乗りかえることにしたわけである。このまま乗続けたらこれだけでは済むはずがない、修理費は増えるばかりに決まってる。トシと共に高額になってくることは目に見えていた。しかしお金を掛けて世話をやいてやれば、まだまだまだのれるのだ。ヨーロッパの人を見たまえ、30万キロも乗っているひとが沢山いるではないか!
なんにしてもお別れは淋しい。ああ、去ってしまった。
私はとっくに免許証を返納しちゃってるから運転は専ら妻である。ダイハツに決めたのも妻だった(画像にカーソルOn)。ああ、あのアクセルを踏んだときの直列6気筒の反応の良いい滑らかでスムーズな吹き上げの感触。そしてその音(さすがにSilkysixと言われるだけのことはあった)。ハンドリングの気持ちよさも特筆ものだった。私はフロントエンジン、リアドライブが好きだったから。ああ、お世話になったね、長年ありがとう。Au revoir ma BMW.
フルートも吹きたいのだけれど、今の状態では不可能である。
■ 2020年1月23日(木)山茶花も終わりに近くなってきた
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なんともきれいな色だ。
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毎年きれいな花を沢山咲かせてくれる3メートルほどに育った山茶花。今年の見頃はもう終わりにちかい。
この花をみると頭の中に童謡「たきび」が聞こえてきてしばらくは止まらなくなってしまう。
童謡 たきび
さざんか さざんか 咲いた道
たき火だ たき火だ おちばたき
あたろうか あたろうよ
しもやけ お手々が もうかゆい
何年かまえに、この山茶花の木にチャドクガが大量に発生したことがあった。放っておくと木が丸坊主になってしまうし、こいつの60万本もあるという毛にやられたらかぶれて大変なことになる。10匹くらいが横一列に並んで上半身を揃って左右に大きく振る動作は気味が悪かったが、嬉しい事に最近はこなくなったようである。まだN響に通っていたころ、12月下旬になると、第三京浜の中央分離帯に植えられた山茶花が咲くのを楽しみにしていた。
■ 2020年1月4日(土)お正月に思ったこと
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愛器パウエルとヘインズ
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西暦2020年になった。1938年生まれの私は昔の数え年で言えば83才だ。嗚呼。。。。
子供の頃は60才くらいの人を見ると「ずいぶん年寄りだな」と思ったものだが、その年さへとっくに超えてしまっている。その頃の年寄りは腰は曲がっていたし、いかにも老人という風体であった。私が小学校の一年生頃の男の平均寿命はなんと50才くらだったのである。厚生労働省が2019年に公表した簡易生命表によると、2018年の日本人の平均寿命は男81.25歳、女は87.32歳で過去最高を更新したとある。現在は90才を超えてもて矍鑠としている人が多いが、私の母も元気に101才まで生きた。これだけ環境の悪化や有毒添加物たっぷりの食品が出回っているというのに実に不思議なことではないか。
いま私の過去を振り返ってみると、今までの人生に於いて、二度も命と紙一重の大病にやられている。心筋梗塞と脳内出血だが、両方とも死亡率の高い病気である。これは常に再発の恐怖が脳裏から離れない。私にあと残っているのは癌だが、三度目のなんとやらと言うからこれをやってしまえばお終いだろうか。或いは一回目も二回目も助かったのだから、三回目も助かるのだろうか。どっちみちそう残りがあるわけでもないけれど。最近は情報化社会だから私も色々と情報は得ている。自分で納得がいく情報を繋いで自分なりの生き方にしている。 あちこちの病院を回っていると医者に対して疑問をもつようになる。医者も人間だから様々だろうが、患者をデータでしか診ない医者がいる。ここで思い出すのはドイツ人から聞いた話しだ。医師はまず患者と握手をすることによって患者の情報を得るそうである。西欧の習慣が役だっているわけだが、相手に触れることによって顔色、皮膚の色、体温、覇気などを感じ取っているのであろう。これは人間的でなかなか良いことではないか。
余談だが最近黒澤明監督の「赤ひげ」という映画をみて感動した。
病院で医者と対する時、患者は必ず医師の左側の椅子に座るようになっているが、これは医者が左脳で患者と対するようにする為だそうだ。左脳は言語や計算力、論理的思考を司る脳と言われている。
不思議なことだが右半身が痺れていて、右手はじゃんけんのグーがやりにくい状態なのに、フルートを吹く時は指がけっこう問題無く動いてくれるし、”音”に関しても2017年の秋に「これだ!」と思うアンブシュア見つけて練習をしてきたが、それが病後も発展しているように感じられていることだ。上唇の左側がしびれているというのに。管を効率よく、空間を響かせることができたら、と66年間1日たりとも思わぬ日はなかったが、その思いが次第に叶ってきたように思われている。昨年11月に岡崎でチェロの名手ライプツィッヒのユルンヤコブ・ティムと共演したが、40年の長きにわたって数多く共演してきたティムが最上級の言葉で褒めてくれたのが嬉しかった。自画自賛っぽいが彼の性格から私にはお世辞とは思えなかったのである。心の中では「やった!」「間違い無かったんだ!」と体温が上がってくるような思いがした。どうやら今のところ生涯笛吹きでありたいという私の願望は叶えられているようである。後遺症で楽ではないがまだまだ吹いてやるぞ、という気持ちが昂ぶっている。
■ 2019年12月1日(日)岡崎宇野病院コンサート
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Y.ティム、浜野範子、私の三重奏は大成功だった
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11月26日は私が脳出血にやられて復帰してから4回目のコンサートであった。岡崎の宇野病院さくらホールで行われたチェロのユルンヤコブ・ティムとピアノの浜野範子さんとのトリオは、アンサンブルの楽しさと言うものを心から堪能することができた印象に残る幸せなコンサートであった。後遺症に悩まされながらの演奏だったが、愛器ヘインズは思いっきり効率よく響いてくれたし、シビれてグーも出来にくい右手の指も充分に動いてくれて実に不思議な気がした。40年の長きに渡ってのお付き合いが続いているチェロ奏者のユルンヤコブ・ティムの演奏はいつも素晴らしいが、特に今回は凄い演奏であった。圧倒される思いがした。最近ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団を定年退職して、一旦はゲヴァントハウス弦楽四重奏団の席も後進に譲ったが、現在は再び望まれて復帰しており来年には来日が予定されている。夫人はフルート奏者、長男はベルリンフィルでセカンドヴァイオリンのトップを、次男はベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団でチェロのトップで弾いているという音楽一家である。ティムにとっての私は一番長い付き合いの日本人だそうである。嬉しいな。
ヘンデルは過去に於いても彼と演奏したことはあるが、今回の演奏では一曲一曲の個性がより豊かに表現できたと思った。今でも心の中で憂いを感じさせるメロディーが鳴りっぱなしで止まらない。クーラウもとても満足できる演奏ができたと思う。この曲はフルート二本とピアノで演奏される事が多いが、今回はフルートとチェロとピアノでの演奏であった。響きが安定していて実に心地よかった。3人が一つの制約の中で自由に自分を出し切ってそれぞれの存在が光り輝いていて演奏しながらうきうきしてしまった。演奏家人生を思いっきり楽しんだ幸せなコンサートであった。今回のピアノは最近宇野医院の宇野甲矢人理事長がニューヨークで購入したスタインウェイで(やや小さめ)中身はハンブルグ製で側がニューヨーク製だと言うことであったが、響きが非常に素晴らしく綺麗で間違い無く“当たり“のピアノである。スタインウェイはどれも綺麗だが、このピアノには更にスパイスを加えたような響きを感じた。浜野範子さんは心得たとばかりに美しい音で楽しそうに弾いていたのが印象に残った。私はこの先もコンサートが予定されているが、心身共に状況に負けぬように演奏ができるように生きていきたいと願っている。
■ 2019年10月21日(月)三年ぶりに西照寺で演奏しました!
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終演後に西照寺の本堂で(中央が住職の木村賢師)
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極楽浄土は小さい頃に夢中で読んだ西遊記で三蔵法師一行が西へ西へと旅をしていく物語であったから西に在るのだな、と思ってきたし、北頭西面という言葉もお釈迦様が生涯を終えて涅槃に入るときの姿だとされているので、これらから西照寺というお寺の名前は、きっと極楽に関係しているのだと思ってきた私である。大病のため間が二年空いてしまったが、今回は色んな意味で感慨深い演奏であった。西照寺の本堂はとても音がよく響いて気持ち良く吹ける。西方の浄土まで届きますように、と思わずにはいられない。お寺のご本尊さまにお尻を向けての演奏は抵抗があって、心の中では「お許し下さい」を言い続けながらの演奏である。
ピアノの浜野範子さんとフルートの横山聡子と3人での演奏であったが、横山さんはごく最近木管のフルートを購入されて、今回初めてそのフルートを使ってのコンサートであった。が、横山さんとこのフルートとの相性は非常に良くて、とても良い響きがしていた。無理なく響きが広がっていく心地よい音だ。これから先が楽しみである。浜野さんの手は相変わらずの状態で貼られたテープをみて痛々しかった。以前は反対の手であったと思ったが、両手とも痛いらしい。しかし演奏は実にしっかりしていてさすがプロ!と思わずにはいられなかった。演奏家にはつきものの腱鞘炎であろうか、早く治って欲しい。
かく言う私はと言えば、生涯でもっともきついコンサートであった。後遺症の痛みが激しくて我慢の限界を超えていたが、全プログラムを吹き終えることができたのだから自分を褒めてやりたい。そして今回使用したパウエルの木管は、病気以前にも増して素晴らしい響きで私を喜ばせてくれた。実に不思議なことだと思う。普段家では半日も横になっている私であるが、フルート無しでは生きていられない性分だからとても辛い。こんな私が普段かかっている医者に、もう少し楽になれないものか、と聞いても「効く薬はありません、辛くて自殺をする人も居るくらいだから」と耳を疑うようなことをはっきり言われてしまった。これは医者も実は開き直っているから、と言うことなのだろうか。私は演奏とは祈のようなものだと思っている。辛いけれど、これからも自分の限界を超えるような人生を送りたいと思う。
■ 2019年10月8日(火)運転免許証を返納した
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悔しい思いを通り過ぎて。。
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ぶつぶつと無慈悲に穴があいてしまった私の免許証。。
ああ、大好きだった車の運転、もう出来なくなってしまった。
愛車BMWが寂しがっているのが伝わってくる。
運転をやめてしまうのには随分抵抗があったけれど、世の中の年寄りが起こす悲惨な事故の報道を見てきた私は、この際免許は返納するべきであるとの結論に達したのである。事故を起こしてからではもう遅いのだ。それでちょうど更新の手続き中であったが一大決心をして今回の入院直前に返納した。
警察署では、ごく当たり前に、冷静に、事務的に手続きをしてくれた。58年間の運転歴が目の前で穴だらけにされてしまった。私は毎晩のように運転をしている夢を見る。楽しい楽しいクルマの運転!
こんど生まれ変わったら、もっとうまい笛吹きになりたいし、車の運転もやりたいと思っている。
こうして、出来なくなることが一つ一つと増えていくのが淋しい。
こんな時にピッタリの言葉がフランス語のC'est la vie(人生なんてこんなもんさ)だろう。全く便利な言葉だね。
このDiaryには沢山クルマに関することを書いてきたが、これはその中の一つ「2003年の8月13日に書いた記事」
■ 2019年9月27日(金)帰ってきたぞ。
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2ヶ月間のリハビリ入院を終えて帰ってきた。この間最初は音出し禁止を言われてショックだったが、その後日に15分だけという条件付きで許可が出たが(その後30分に延長)、あと一週間で退院という時になって悲しいかな音出し禁止の冷ややかな宣告をされてしまったのだ。それでこのようにベッドの上で胴部管だけでの練習をやってたわけである。言う方では当たり前のことを事務的に伝えるだけだけれど、受け入れなければならない方としては可成りの精神的な負担を伴う。
私のために練習ができるようにと進言をしてくれたやさしい療法士さんもいた。これは嬉しかったな。私は一ヶ月後にコンサートが控えているのだ。だから病院から抜け出して家に帰ってしまおうかと本気で考えてしまった。が、どうにか耐えた。辛かった。笛吹きにとって、笛が吹きたいときに吹けないと言うことはあってはならない。その点最初に入院したなみきリハビリテーション病院は理解があった。
いま帰って来て練習ができるのは無上の歓びである。ストレスの発散も著しい。
入院生活は色々とあった。良いことも、そうでないことも。
期待した促通反復療法の成果はどうだっただろうか。療法士さん達の顔を一人ひとり思い出す。皆よくやってくれた。治療中に楽しい話が弾むこともあった。しかしこの病気は成果をあげるのは難しそうだ。
辛いときには生きていられたことに感謝をすることにしているのだけれど。
この先一体私にどんなことが待っているのだろう、とよく思う。
「私が生涯で最もきれいな音を出すとき、それはこの世で最後にフルートを吹く時でありたい」とホームページのMusicの部屋に書いている。これが成就することを願わずにはいられない。
私は吹き続ける。なにがあっても吹き続ける。フルートが大好きでたまらないから。
嬉しい事に音は出ているようだ。が、しかし唇がやや硬くなっているのをほぐさなければならない。問題は右手の指と首。
自分の精神状態をうまくコントロールしていかなければならない。コンサートは三週間後に迫っている。
■ 2019年7月23日(火)明日からリハビリ入院します
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明日から新戸塚病院で約2ヶ月間の予定で促通反復療法というリハビリを受けます。二月に予約をして約半年待っての入院です。期待が大きいと失望も大きいので、楽な気持ちで行ってこようかな。
しばらくアップできませんが、どうぞよろしく。
■ 2019年7月21日(日)私の寿命
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あと10年も!
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寿命測定をしてくれるというところがあったので、遊びでやってみた。
なんとあと10年も生きる、と出たよ。
そんなはずは無い。
標準体重が50キロと出たけれど、今の私は52キロだ。
やってみますか?
→ 寿命測定 → もう一箇所の寿命測定(ここではあと7 年 229 日 4 時間 36 分 34 秒とでました)
■ 2019年7月15日(月)Michael Jackson!
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King of pop!
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久し振りでマイケルジャクソンの歌を聴いた。感動が甦ってきた。何て云う人なのだろう、80のジジイの心まで虜にしてしまうなんて。肩書きは音楽家, シンガーソングライター, 音楽プロデューサー, ダンサー, 振付師, 実業家, 俳優, ビートボクサー, パントマイマーと実に多才な人であった。改めて希有の人だと思う。2009年にまだ50才という若さで謎の死を遂げてしまったマイケルジャクソン。いまこの人が残してくれた数多くの歌をYouTubeのおかげでじっくりと味わうことが出来るのはとても嬉しい。
私が特に好きな2曲(本当はまだまだあるけど)。
思えば最初にこのアースソングを聴いたのがきっかけで、次第にマイケルジャクソンに傾倒していったのだった。何ヶ月もメロディーが頭から離れなかった。
EARTH SONG
マイケルが自分の曲の中で1番好きだったという曲でリンクしたのは1996年にブルネイにおいて国王の誕生日を祝ったコンサートで最後に歌った時の動画。地球に対して人間が犯してきた様々な愚かさに対する気持ちを熱唱、というよりも絶叫している。1995年に発表したというから37才のときの曲だ。作詞・作曲ともジャクソン自身によるものである。
One Day In Your Life
作曲はRenéeArmandでマイケルジャクソンではないらしいが、とにかく曲の美しさとマイケルの歌唱力に心を打たれる。そして彼の歌もさることながら間奏のところでホルンが奏でるメロディーにも感動をおぼえる。
■ 2019年6月30日(日)トラちゃんが、行っちゃった、
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トラちゃんは貰われていきました(シャッターは妻)
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約一ヶ月半くらい一緒に暮らしたトラちゃんが、昨日小雨が降る港南台駅前で里親になって下さるSさんに引き取られて行っちゃいました。我が家は3人でトラちゃんを連れて約束の港南台駅まで出かけて、そこで里親のSさんとお会いした。Sさんはお嬢さんと2人で来られた。とても優しそうな人だったので安心してお渡しすることができた。息子が学校帰りに段ボールに入れられて捨てられる寸前の3匹の仔猫を見つけて、その中から一番弱々しくてもらい手が無さそうな仔猫が可哀想で可愛くて持ち帰ったのがトラちゃんだった。来た時には歩くのもまだ足がふらついて弱々しくて頼りが無かったトラちゃんだったが、最近ではもう部屋中を走り回ってじゃれついてくるほど元気になっていた。自分の名前も覚えてくれていた。息子にとってはお別れのこの日は一番辛い日であったようだ。トラちゃんが行ってしまったあと、30分くらいは辛そうにうつむいて言葉もでなかった。Sさんが可愛がってくださるから安心していようね、と慰めることしかできなかった。私は病後で弱っているうえにギックリ腰のオマケまでついての外出であったが、無理をして行って良かった。Sさんにお会いすることができたから。
こうして夜中に寝室から居間にきても、もう今までのようにトラちゃんが側に寄ってこないのがさみしい。でも、今回は息子がくれた、とても良い思い出になった。《トラちゃん事件》は忘れることが無いだろう。
■ 2019年6月21日(金)我が家に滞在中のトラちゃん
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トラちゃんは生後2か月です
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1か月くらい前のこと、息子が学校帰りに通りかかったある家の前に置かれた段ボールの中に三匹のかわいい子猫が入れられているの見つけた。そこにいたおじさんに「このネコちゃん、かわいいですね」と言ったら「もう捨てないといけないいんだよ」と言ったそうである。捨てると聞いて息子は可哀想に思って、その中の一匹をおじさんから貰って連れて帰って来たのがこの写真のトラちゃんだ。私も動物は嫌いじゃない。けれど今住んでいる集合住宅では飼いにくいし、条件も色々と有るからもうずっと長い間飼っていない。
私が今までに飼ったことがある動物は子供の頃から数えると、スズメ、ウサギ、ネコ(沢山)、イヌ(沢山)、ミミズク、九官鳥、手乗り文鳥、野ウサギ、ジュウシマツ、
カラス、と非常に多いが、それらの全てが私に慣れて、野ウサギなどは私が名前を呼ぶと肩の上に飛び乗ってくるほどだった。動物は可愛いけれど、別れは辛い。それもあって飼ってこなかったということもある。
このトラちゃんは《いつでも里親募集中》というところに登録して、いま里親になってくれる人を待っているところである。今風に言えば、めっちゃカワイイトラちゃん。ということになるのかな。どうぞよろしく!
※里親になってくださる人がきまりました! トラちゃんは29日に行ってしまいます。 サ ビ シ イ(6月25日)
■ 2019年6月6日(木)吉田文さんとのコンサートが終わりました!
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五反城教会で(ご主人のトーマスさん・離れちゃってる?)
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ああ、復活節として行われた吉田文さんとのバッハが終わった!今まで準備してきた緊張の数ヶ月間は体調と体力と精神力との闘いでもあった。2月に演奏した家の近くの上郷地区センターの時には自分として初めての曲もあったので病後初めてのコンサートは終わってから2ヶ月間くらいはぐったりしちゃったから、今回の名古屋の五反城教会は移動もあったので気をつかった。でも終わってみると2回目となると体も慣れてくるのか、1回目ほどでもなかったような気がする。よく練習してきたと思う。文字通りさらいまくったという言葉がピッタリだったろう。バッハのトリオソナタだけれど、文さんとの演奏は今回が7回目だったからトリオソナタは全6曲を演奏し終えていたわけである(BWV 525-530 キルヒナー版)。そのことが前回の6回目が終わった時に話題になって、それを聞いていた文さんのご主人作曲家でオルガン奏者のトーマスさんが「私が7曲目を編曲しましょう」と云ってくださったのである。これが今回の「幻の第七番」の誕生となった経緯である。フルートがよくやるBWV1039からの編曲ではなく、BWV1027(ヴィオラダガンバ)からの編曲で、調も変ロ長調という吹きやすい調にして下さったのが嬉しかった。しかしこれにはオマケがついてしまった。バッハのトリオソナタBWV1027の演奏後、トーマスさんに感謝の意を伝えるべく、立って戴いて聴衆の皆さんに紹介しなくちゃいけないと思ったから、忘れないように私の譜面の最後のところに【トーマスさんを呼んで立ってもらうこと!】と書いておいたのだ。なのに、ああ終わった、という安堵感からすっかりお呼びするのを忘れてしまったのである。演奏の直前まで覚えて居たのに、これは悔しかった。なんという不覚。トーマスさん有り難う!そして御免なさい!とにかく私にとっては死に物狂いの演奏が終わったばかりであったのだ。
アンコールでは今回ハープの近藤薫さんも参加していたからフランクの荘厳ミサ曲から天使の糧を演奏した。この曲の美しさ、優しさ、深さは吹いていても強烈に全身に沁み渡ってくる。シャルロット・チャーチの声を思い描きながら吹いた。私は普段から音楽について細かく意見を言ったり議論することを好まないが、文さんも同じく自分の考えなどを話すことはしない人である。言葉よりも、彼女の普段の行動から充分に理解できるのである。この日も一緒に演奏していてビリビリと伝わってくるのだった。私はそんな文さんが大好き。普段から沢山のコンサートを企画して精力的に活動をされている文さんは、最近引越をされ、その為に体力を消耗されたことと思うが、そんなことを微塵も感じさせない演奏であった。五反城教会には沢山の人達が聴きにきてくださった。名フィルの富久田さんも来てくれたし、筑波からは昔の教え子が、京都からは息子たち(Op.2-1&2-2)も来てくれたし、名古屋在住の妹と、ちょうど帰国前日だったフロリダ在住の妹も聴いてくれた。文さんとはまた次回も!と約束したが、実は2人でCDを作ろうか、という話が芽生えてきている。実現できたら嬉しいな! 病後であるにも関わらず(詳しくは病中と云うべきだが)、我が配偶フルート、パウエルの木管の最近の響きは今までにないものを感じている。嗚呼、生きていて良かった。もっと生きなくちゃ!フルートが吹けるのだから!
★吉田文さんがコンサートの事をブログ風琴亭に書いてくださいました。
■ 2019年5月31日(金)マクレラン牧子さんと会いました
すっかり紹興酒が効いて、いい顔色になってる。マクレラン・牧子さんと会ったのは福井の高浜で倒れた時に入院した小浜の病院にお見舞いにきてくれた時以来だから一年半ぶりだった。嬉しかったな◯。この日(5月21日)は会う約束をしていた午前中に大雨警報が出て、それで夕方に変更して港南台駅で会った。夕方にはすっかりやんでいた。我々は駅前の南国酒家へ行って席を取ると、もうたまった話が堰を切ったように溢れてくるのだった。料理もうまかったし、紹興酒もうまかったし、いくら話してもきりが無くて時間が足りなかった。楽しいと自分の体調のことも忘れちゃうよ。
牧子さんはすごい人なんだ!なんとスカイダイビングもやってしまうという大胆な人。料理も上手。浦佐の牧子さん宅の広い庭にいっぱいの人が集まってBBQを楽しむ時にも、悠然とかまえているようで、まるで魔法の様にあっという間に沢山の料理が出てくるのにはいつも驚いている。牧子さんが慌てたりイライラしたりするところを見たことがないのでいつも不思議に思っている。地元浦佐の池田美術館ではアドバイザーを務めながら池田音楽クラブに所属してロビーでのコンサートでも度々フルートの演奏もやっている。会社の運営も整然としていて凄腕。実に多才は人だ。今回の牧子さんは横浜で三日間の予定で仕事があるとのこと、忙しいのに予定を一日早めて会ってくれたのである。今度はこちらから牧子さんのところに行きたいな。牧子さんといえば当ホームページのMuseumのなかで紹介している磁器の笛吹き人形を下さった人です。もしまだだったらステキだから見てください。
■ 2019年5月15日(水)フロリダから妹が来てくれた
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フロリダから妹が来た(私の隣)
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フロリダから外国での生活がもう何十年にもなる妹が来てくれた。私は4人兄弟のうちの次男坊で兄が一人、妹が2人いて今回来たのは末っ子の妹、というわけである。みなトシを取ったよ。妹としては年に一回の帰国だから貴重な時間だろう。
フロリダは日本からみるとアメリカの一番むこうがわだから随分遠い。なにしろ12000km以上もあるのだから。まだ直行便はない。けど、是非一度は行ってみたいと思っている。それで航空券の情報を調べてもいるのだけど、やはりフロリダ行きともなれば大事(おおごと)だから簡単に今日明日と云うわけにはいかないだろうけれど。フロリダにはその辺の川やゴルフ場などにも普通にワニがお出ましになるというから恐ろしいところだ。事故もあると聞く。でもキーウェストやマイアミの海岸にも行ってみたいな。まだ若い頃、マイアミビーチルンバという曲を良く吹いてたのを思い出して懐かしい。
この日のテーブルには寿司や刺身などの料理が並ぶ。お陰でこちらもご相伴にあずかってしまったよ。(^_^)
■ 2019年5月11日(土)小出信也式エクササイズ
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バッハの譜面上のパウエルとヘインズ
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今日は私が昔から毎日行っているエクササイズのやり方を書いてみようかな。別に企業秘密でもないし、僕だけにしか通用しない事かも知れないし。まずフルートを組み立てる前に必ず頭部管だけを吹いてみることから始めるんだよね。これは私にとってとても重要なこと。鏡で自分の口を見ながら、注意深く、調子が良い時と同じように響くところを探す。日によっては予想もしていなかった口になっていて驚くこともある。唇の形や角度や穴の大きさや息の強さを変えつつ、音を出しながら最良のところを探すんだよね。絶対に強くは吹かない。これは頭部管の下を右手でを塞いだり開いたりしながら行う。良い所が見つかってこれが終わったら、今度は胴部管も繋いで吹いてみる。これでよし、となって全部を組み立ててからロングトーンでの仕上げになる、とまあこんな具合。響きのモトをこしらえておいてから、楽器を効率よく響かせて(鳴らせてとは云わない)「その場の空間を振動させる」ような響きを得ようとするわけ。これ、強さじゃないんだよね。人間は機械じゃない、生身の生き物だから体調はいつも同じじゃない。毎日微妙に頬の柔らかさや唇の状態などが異なるから、これをやらないと、せっかくこれだ!と思って喜んでいた口も壊れちゃう。その日の自分の状態が分からないまま無理をしないことなんだ。頭部管だけで吹いてみるのはオーボエ奏者が先ずリードだけを吹いているのと似ている。私の口は昔からとても神経質で日によって変わりやすいから慎重ならざるを得ないんだ。こんなことをやってるは私だけかもしれない。
ところで病後の私は最良の状態とは言いがたい。良くないところを細かく書き出すときりが無いくらいだ。でも、でも、吹きたくてたまらない。吹かないと病気になっちゃう(もうなってる)。私の可愛いフルートよ、なんて素晴らしいフルートだろう! 我ながら見惚れるよ。こうしてみていると最上級の響きを導き出してやりたいと思わずにはいられない。待っててくれよ。
■ 2019年5月8日(水) 脳内出血-5・ICUから一般病棟へ
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マクレラン牧子さん(上中央)と愛器ヘインズ
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(10月5日の続き)
福井県の小浜市にある杉田玄白記念公立小浜病院に緊急入院したのは2017年10月4日の午後8時過ぎだった。
ICUのベッドに横になると背中がでこぼこして非常に居心地が悪く、最初はベッドが変形しているのではないかと思ったが、シーツを交換するときに見ても普通だったので不思議だった。しかしどうやらその原因は私の背中の神経がやられていたのが原因らしいと分かったのだった。どう見てもベッドは平らだったから。磯崎医師の8日の見回りの際に「お腹が空いた」と訴えたら、「じゃ食事を出しましょう」ということになって、久し振りに食事と摂ることができるようになった。5日ぶりの食事は普通常食というものでメニューは200ml入りの牛乳パック、ワカメと昆布が入った味噌汁、絞り納豆のステーキ、ササゲのごま和え、かつおみりんのふりかけにご飯だった。これで1500キロカロリー。
入院してから5日目の10月9日になって、私は一般病棟へ移動することを告げられた。これは危機を脱したという事なのだろうと思った。看護師のSさんが8階の801号室へ案内をしてくれた。今度は個室だった。外部とは閉ざされていたICUと違って部屋は大きく窓が開いて明るく、若狭湾も見えていた。しかし淋しげな景色だった。夕方になると赤く染まる空を眺めながら家に飾ってある斉藤真一の絵を思い出し、水上勉の小説を思い出していた。そうだ、10月10日はオーボエの小島葉子さんの誕生日だから電話をかけてあげよう、と思っていた。
妻は初めの頃にはお見舞いに来た人が休憩するための場所の片隅で仮眠をとっているような状態だったが、個室になってからはソファーベッドがあったから部屋で寝泊まりができるようになった。ICUでのお見舞いは親族に限られていたけれど一般病棟になってからは決められた時間内であれば誰でもOKになった。沢山の方がお見舞いに来て下さった。地元からはステージで倒れたときに一緒に演奏していたソプラノ歌手の野原広子さんが毎日のように来て下さったし、野原さんの友人で私の友人でもある永井凉子さんも頻繁にきてくださった。
地元で捕れた魚の刺身や寿司や手作りのサンドイッチなども持ってきてくださった。新潟県の浦佐からはマクレラン牧子さんが500キロの距離をベンツをとばして駆けつけてくださった(上の写真)。お土産には綺麗なお花と八海山の甘酒(ノンアルコール)をくださった。牧子さんとこんな所で会うなんて! 南砺市の光徳寺からは住職の高坂道人さんと妹の京子さん、お二人のお母さんの高坂千鶴子さんが来て下さった。また龍角散の藤井隆太社長、島田市からは「なむなむ音楽会」の西照寺木村賢住職、京都からはチェンバロ制作者の春山直岳さん夫妻、山崎からは息子のOp.2-1と2-2とがお見舞いに来てくれた。皆から沢山の差入れを戴いた。
15日になって、初めて私は気になっていたフルートを見よう思った。この日まではそれどころではなかったから。ステージで発作を起こした時には落とすまいと必死で握りしめていた愛器ヘインズは一体どうなっているのだろうか。身の回り品など全て持ち込み禁止のICUに特別に持ち込みを許可してもらって添い寝をしてきたヘインズ。ケースを恐る恐る開けてみると、果たしてそこには無傷のままヘインズは微笑んでいた。キズも全くなかった。私は愛おしくて時間を掛けて丁寧に拭いてあげた。その時の私の状態では吹いてみることはできなかったけれど、愛おしくてたまらなかった。
入院中には色々と不思議なことが起こったが、このころになっても同じであった。例の棒で雨戸を叩くような音が変わったリズムで一日中聞こえていたり(十六分の五拍子で休止符が入る複雑なリズム)、まるでシューベルトの魔王のように恐ろしく唸るような風の音が聞こえたり、聞いたこともないメロディーがエンドレスで聞こえてきたりした。脳幹がショックを受けて騒いでいるのだ。
高浜へ行く時には毎回非常に楽しみにしているところがある。それは私が尊敬している水上勉が昭和60年に創立した若州一滴文庫だが、今回も楽しみにしていた。ああ、しかしとんでもない事になって行かれなくなってしまったのは非常に残念だった。学芸員の下森さんと時岡さんはお元気だろうか。
私は歩くことが出来なくなったので車椅子で移動していたが、このまま車椅子の生活になってしまうのだろうか、という不安でいっぱいだった。車椅子は19年前の心筋梗塞の時にも使ったから慣れてはいた。しかし今回はダメージが大きかったから再び歩けるようになるのか、非常に不安である。痺れに関しては担当の磯崎医師が、一年経っても残っていたら、それは生涯とれないかもしれない、と言ったのが気になった。(闘病日記 INDEXへ)
■ 2019年5月5日(日)甦ったテレビ!
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テレビの裏蓋を開けたところ
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電力を少し多めに食うけれど、テレビは液晶よりもプラズマの方が好きだ。色や立体感が自然で気持ち良いから。テレビを見ると云っても私が見るのはニュース、ドキュメント番組、自然もの、ノンフィクションなどがほとんどで騒がしい番組は一切見ない。我が家のテレビは2010年に買った日立のWoooというプラズマテレビだが、数ヶ月前から丁度画面の中央辺りに幅約10センチくらいの縦帯が現れて日を追う毎に緑ぽい色が濃くなり見づらくなってきた。煩わしいことおびただしい。もう寿命なのかと思った。日立から修理に来てもらおうかとも考えたけれど、自分でなんとかできないものかと色々と調べてみたら、ウェブ上に同じ症状で困った人が、自分で直した、という情報を出していたのを見つけて、ダメモトで真似をしてやってみることにした。スクリーンを下にして裏蓋を上に向けた状態にしておき、20数本のネジを外して裏蓋を開いた。外すべきネジには矢印マークがあるので分かりやすい。そこには猛烈に細かい配線などがあったので注意をしてホコリをはらった。どこかが原因になっているはずであるが、しかし明らかにここだ、と思えるようなところは素人の私には全くわからなかった。工事に際しては裏蓋を外す際も、元に戻す際にもドライバーがネジに対して斜めにならないように持ち、締める時には強すぎないように注意した。ネジは全部を緩めに入れておいてから、全体的を対角線の順に締めるようにした。これはクルマのタイヤを取り付ける時と同じだろう。
さて組み立て終えてからドキドキしながらスイッチを入れた。可能性は半々だと思いながらも、ああ、どうか直ってますように、、 そして結果は、、おお!疫病神のようだった帯が見事になくなっている! 万々歳であった。やったことはホコリを払っただけであったが。しばらくはこのまま綺麗に映ってくださいね。《参考にしたところ》
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